ねむいつらいかえりたい

もうただの日記

ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと 1960-70年代美術@兵庫県立美術館

兵庫県立美術館に行ってきました。ドイツのフィッシャー夫婦のギャラリーとそれをめぐる膨大な資料と作家とのやりとりと作品群。
結論から言うと、作品も見せ方もめちゃくちゃ良かった。
"ぶっちゃけ普通にわかりにくいけど、徹底解説します!"という見せる側の心意気が表れてたように思う。

私自身ドイツとミニマルミュージックは好きだけどミニマルアートという単語にはいまいちピンとこず、様式の前情報なしに作品を見た。
"ミニマルアートとは形態、色彩を最小限に単純化し、今ここにある単なる物体を対象にするスタイル"。うん…無味乾燥って感じか。

と思い作家を見ると、カール・アンドレ、ソル・ルウィット、ダン・フレイヴィンなど。あーグッゲンハイムとかMoMAでみたやつだ。現代アートのあれだ。
と若干冷めた目で見てたけど、見れば見るほどなぜかしっくりくるものがあった。

数字や記号や物体の規則的な並びはとても落ち着く。それに執着するこだわりを私も理解できるからだ。

また、このジャンルの場合、展示施設とアーティストの関係性がいかに重要か知ることができてそれも面白かった。

人間の生活は往々にして単調で美しくなくつまらないけど、今回の展示を見て、数字、材質、距離、あらゆる概念がアートになり得ることに不思議な勇気をもらった。
私は全然何の創作もせずミニマルライフを日々繰り返してるだけだけど、何かふとしたきっかけで物の見え方が変わる瞬間をもっと大事にしたいと思った。

そもそもミニマルアートっていうのは、こういった感情的表現を排除する、理性による理性のための表現なんだろうけど、逆にそこに落ち着きを覚えるし、人間的だと思う。
これは私がミニマルミュージックが好きな理由でもあるけど。

こういう人にはわかりえないこだわりを持ち続けていつかそれが評価される日が来たらいいよね。

以下、記憶に残った作品を羅列。

河原温
Todayシリーズは単品で見たことがあって、ふーん程度にしか思ってなかったが、今回ニューヨークの絵葉書に毎日自分の起床時間をタイプしてフィッシャー夫妻に送り続けたI Got Upシリーズが上から吊り下げられ何百枚も展示されていて、、
継続性の美しさを見たというか、時間の記録だけで生命の痕跡を感じることができるんだと思った。
全く話は変わるけど、今年どこかの漫画家にTwitterのDMで毎日の勉強時間をひたすら送り続けた受験生がいたという話を思い出して、もうそれこそデジタルミニマルアートなのではと思った。

・スタンリー・ブラウン
道路に敷いた白紙の上を通行人に歩かせてその軌跡を作品にしたり、自分の歩いた芝生だけの写真を撮ったり、歩くことと距離に異常な執着を燃やしている謎のオランダのアーティストらしい。
私は道も好きなので彼の好きなものにすごく共感できて興味深く見れた。

・ハンネ・ダルボーフェン
正直理解できない数式が羅列している。何が違うのか結論は何なのか見るものには伝わってこない。しかしそれは彼女にとって命に等しい規則性なんだと思う。
昔からよくネットにいる、何かを必死に妄信してる人がツイートしてる手書きのよくわからない数式とか、もう時代変わってこれもミニマルアートやろ…。

・ベッヒャー夫妻
グリッド配置された産業構造物の写真シリーズが最高だった。給水塔とか溶鉱炉とか、ちょっと角度変えたりして見える姿が変わっていくのがかわいくてたまらない。大好きすぎてこれは写真集を買う勢い。
このベッヒャー夫妻のフォロワーがグルスキーとかトーマス・ルフらしい。なるほど。

・ギルバート&ジョージ
まだ現役の2人。過激なおじいちゃんだと思ってたら原点はこういう活動だったのか…。若い頃はまるでクラフトワークみたいなビジュアルの面白い作品が多々あって、しかも作品数とフィッシャー夫妻にあてた手紙の数も多くて見ごたえがあった。
日本でも個別の美術展やってほしいな。

余談だけど、兵庫県立美術館に久しぶりに行ったら撮影会?か何かなのか、よくわからん女の子と、事務的な会話しかしてもらえていない男性カメラマンたちのドライな関係性を目の当たりにし、これは何なんだと思ってしまった…。
いや場所代はタダだし公共施設だから迷惑かからなければ自由に使えばいいんだけど、彼らの関係性に料金は発生してるんでしょうか…。女性は単なる被写体なんでしょうか…。

まあそれはそれとして、今回初めて隣のJICA関西の食堂でパラグアイ料理も食べてきた。週替わりで各国の郷土料理が食べられたり、ハラール認定のランチがあったり、前から気になっていたので。
パラグアイ料理は…うーん、肉団子!